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尼子残党から大名となった亀井茲矩の「功名心」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第87回

■後世の評価に影響した亀井茲矩の 「功名心」

鳥取県鳥取市気高町と鹿野町の旧町境となる、武蔵山に立つ亀井茲矩の墓。独特な尖頂方柱型の墓標が目を引く。

 亀井茲矩(かめいこれのり)は、山中幸盛(やまなかゆきもり)たちを中心とした尼子残党として戦い、後に秀吉から大名として取り立てられた戦国武将ですが、一般的にはあまり評価は高くないと思われます。

 

 茲矩は尼子家において、山中幸盛の養女を正室に迎え、重臣の亀井家の家督を継承するなど高く期待されていたことが伺えます。

 

 尼子軍滅亡後に、秀吉の幕下に加わって活躍したことが評価され、信長死後の中国大返しでは山陰地方の抑えとして因幡国鹿野城(いなばのくにしかのじょう)を任されています。

 

 茲矩の評価が高くないのは、関ヶ原の戦いでの「功名心」による行動が影響していると考えられます。

 

■「功名心」とは?

 

「功名心」とは辞書によると「手柄を立てて有名になりたい、あるいは富や名声を得たいと強く願う気持ちのこと」とされています。

 

 これは、自身の成果を他者から認められたいという、周囲を意識した欲求から生まれる心情を指します。

 

 似たイメージの「向上心」は、自分自身を成長させようとするベクトルが自分に向いていますが、「功名心」は他者からの評価を意識する点が異なります。

 

 茲矩は強い「功名心」を見せていました。

 

■亀井家の事績

 

 亀井家は紀伊国牟婁郡(きいのくに・むろぐん)亀井を出自とするとも言われ、藤白鈴木家の亀井重清(かめいしげきよ)の末裔とも称していますが、詳細は不明です。亀井永綱のころに尼子家に仕え、月山富田城を奪う戦いでの戦功により家老となりました。孫の秀綱も、家老として船岡山合戦に従軍するなど活躍して、毛利元就(もうりもとなり)の異母弟との家督争いに介入しています。しかし1530年以降、秀綱および子の安綱の消息は不明となります。

 

 一方で、時期は不明ながら、山中幸盛が秀綱の娘を正室に迎え、一時的に亀井を名乗っています。茲矩は尼子家家臣の湯永綱の長男として生まれますが、1566年に尼子家が滅ぼされると、流浪したと言われています。その後、山中幸盛たちと尼子家再興運動を開始し、幸盛の養女となっていた秀綱の娘を娶り、亀井家を継承しました。

 

 織田家が中国方面の攻略を始めると、尼子家としてこれに協力する中、茲矩は明智光秀に属して、信貴山城攻めなどに参加しています。幸盛たち尼子軍が上月城で滅亡すると、秀吉の傘下に入って、毛利家攻略の一翼を担っていきます。

 

■秀吉からの評価を意識した言動

 

 茲矩は吉川経家が守る鳥取城攻めで活躍し、因幡国鹿野1万3500石を与えられています。秀吉の信用を得ていたため、本能寺の変での中国大返しの際には、山陰地方の抑え役として、最前線となる鹿野城を守っています。

 

 毛利家との講和により、尼子家の旧領である出雲国の回復が不可能になると、代わりに琉球国を要望しました。これを秀吉から面白がられて、律令制度にはない琉球守に任じられています。

 

 その後、島津家が豊臣政権に臣従したため、琉球守から武蔵守に変更となりますが、以降も中国の地域名である台州守を称し、アジアとの貿易への関心を持ち続けます。江戸時代には、現在のタイとの朱印船貿易を数回行ったとされています。

 

 文禄慶長の役に参加した際には、現地で虎狩りを行い、秀吉に献上しています。この取次をした長束正家とは懇意だったようで、そのやり取りが残っています。

 

 茲矩は秀吉に従順な姿勢を見せ、関心を得ていきましたが、その後の関ヶ原の戦いでは、強引な手法も厭わない戦い方を見せます。

次のページ■関ヶ原の戦いで見せた「功名心」

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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